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聖職者の悲しみ [癒し]

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昔 有名な神学校の学生が 牧師になる直前 自分の学校は株式会社だ。教会もそうだ 自分は もう牧師になるべきかどうかわからないと悩み やってきたことがあった。 神学校に行く 自分の一生を神に捧げると決め 選んだはずなのに 今なぜ
と思う。
神学部。。。。私の息子は お受験の時 学部のひとつに 入ったら行ってもいいなといううちのひとつで 軽い気持ちで
神学部を受けた。でも 帰宅すると カンカンに怒っている。『あんなところに 神様はおらん!」 と 私に ビラの山を投げ出した。「入り口で貰った こんなもの配ってる。 僕は通ってもいかないで」と言った。
私はどこでも入ってくれたら 行って欲しい
就職してもいいんだから という せこい親心だった。
政治的なビラ ・・・・イズムが 入っている。知性が支配している。まじりものがある。
 
そして その学生は 祈られにやってきた。 紹介した人が もうなんだか彼は危ないから と言って夜中にもかかわらず ある伝道者の青年が泊まっている所に連れてきた。 そして 祈られた。 聖霊に満たされるように。
すると 学生は 静かに横たわり しばらくたってから 半身を起こし 伝道者の方に抱きついて 号泣した。
「これだったんですね わかりました わかりました」

聖職者は 傷つく。 この世に生きている もっとも痛んだ人と関わるがゆえに 痛んだ人の傷の反応で 自分も切られる。
傍から見ていても 気の毒と思うことがある。
でも守ってくださるのは イエス様。 
そして イエス様の愛で 守られる。

私のようなオバサンでも 教会でいろいろある。 
先日 人に紹介されて 私の行っている教会にお連れした人。 
泣いて喜んでいた風だったのに 突然 批判を始めだした。
私は それで悲しいとかはあまり思わないけれど あ~どこでも喜べない人だなあと思う。
イエス様がっかり かも。
なにかずっと あら捜しをしていたから。 きっと賢い人。

信徒は勝手なものである・・・(自分も含めて。)
聖職者の悲しみって ・・・・私たちの想像以上のものだろう。
結構 勝手な信徒で傷つくのかも。 あがめられている分 孤独だし。
カトリックのお祈り本には 聖職者のための祈り と言うのがある。
一番に 祈られなくてはならない人たちだろう。
なぜなら 親亀こけたら 皆こけた だから 狙われやすい人たち。


やっぱり 神に呼ばれた人 先頭を切って 歩いていって欲しい。 
イエス様を見つめてイエス様のところへ。
そして 彼らは 私たちを導くのではなく イエス様を喜んでいて欲しい。
羊を囲い込む 柵にならないでほしいと願う。

私は祈る 聖職者の人のために。
そして かれらも 一匹の羊となって 主の前に ただ賛美の器となってあり
わたしたち 信徒とともにひとつになって  ただ一人の神
イエス様の前に 平らに ひざまづいて賛美する。
そんな沢山の群衆の姿が 世界中に 渦を巻いて存在するように
そんなイメージが 浮かびます。





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