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十字架の血潮 [十字架]


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この カード
じっと見ると 赤いのは 十字架のイエス様の血潮で 台の下に向かって
流れています。

えげつない! と 思いますね。
私は長い間 クリスチャンなのにイエス様の十字架の意味が
本当にはわかっていなかった。
今でも 大きすぎて 全部はわかっていないに違いない。

十字架で 私たちの罪のために 死んでくださり
私たちに 罪の許しと永遠の命を下さった。 その確信はありました。

しかし 十字架の血潮が この絵のように 今も 流れ続けていて
私たち一人一人を 地球を 癒し続けて下さっている・・・・
イエスさまは今も 生きて働いておられるということを知ったのは
20年くらい前でした。

この絵にある 光
           聖霊です。

不思議な絵ですね。 えげつない感じの中で 思わず
もうこれ以上 イエス様 あなたの血を 流さないでください 
私たちの罪をお許しくださいと 祈ってしまいます。


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福原愛ちゃんの十字架 [十字架]

so-net blog.JPG全くの 体育会系ではない私は オリンピックもあまり関心なく 過ぎていった。
でも 卓球の福原愛ちゃんの姿をみて え~~っと 驚き見入った。 
彼女のシャツの間から しっかり出ている十字架ペンダント。
アクセサリーでつけているのではない 感じ。

なんだかほっとした。愛ちゃんが クリスチャンかどうかはわからないけれど 
自分の一番大事な場所に クロスを着け 着けるだけではなく しっかり 主張!!!
きっと 信仰を 得られているのだろう。

小さい時から 卓球一筋。 親に振り回された・・とか 色々思うことだろう。
小さい時の 負けるときの悔しい顔!
負けたら 親に愛されなくなる・・とまで思っていたかどうかわからないけれど
あまりに 子供にあんな思いをさせるなんて・・つらい と思っていた私は
今 オリンピックで 愛ちゃんが 勝っても負けても 良い世界にいるのがわかった。
卓球と愛ちゃんの間に 十字架が立ったのだろう。

貰ったものか 自分で買われたのかも 全くわからないけれど
つけている愛ちゃんに 神様の愛が満ちていると感じる。
マラソンの 増田明美さんのような変貌を感じた。目が違う。

同じことをしても・・入賞しても・・・ 喜びと絶望の違いがある。
今回 成績は振るわなかったけれど 本当に 愛ちゃんが喜んでいる
それで~~いいのだ~~~の世界です。



みんなが 超教派 [十字架]

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昨日は 同窓会のバザーで 出店をした。 クロスアクセサリー。 
その中の ハトのキーホルダーを買いに来られた方がいて
それを掴んで おられたので もう買われると思い 彼が 『聖霊のハト 大好きなんです」と言われ 
「それなら このメダルも差し上げましょう」と 赤いハトのメダルを渡した。 
すると 買うのは止めて ぶつぶつ何か言い出された。ベネディクト十字架を見て 「教会どこ?カトリック?」 と言われたので 「超教派です」『コノ十字架は いかん」『ああイエス様がついているから?わたしは なんだっていいんですよ」と言うと 強く「それは違う!」と 大きな声で 責められました。『イエス様から見たら
なんだって同じですよ」と 私は反論。
ああきっと ○○派だと思うと 自分から 「私は○○だから」と言われました。
以前にも ○○教会の人(仕えている人)に 聖霊の話をしたら ナニ言ってるんだ 私はは命がけでコノ仕事をしているんだ!
と怒鳴られ わけわからず (聖霊に反発?) これってなんなのと 考え込んだ。
教会が違う 教派が違う アタリマエじゃない? でもイエス様は同じに見ておられると思う。
星の数ほど コノ2000年で 教派があったと思う。 つぶれたもの 怪しいもの ・・・・・・

完全な教会は ナイ!
だから 自分のところがサイコウ 正しい 他は間違っていると叫ぶのは こっけい。
自分が自分の教会を 好きなのは幸せだろう・・・・
だけど 彼氏がいて ハッピーで 他の人の彼氏を ぼろくそに言うのは こっけい。
イエス様の人形が 偶像と言う人もいるだろう。
でも コノ姿を見て 一瞬にして 神を知る 人がいる。
また字の読めない人もいるかもしれない。 その人に
1枚の絵が 救い主を伝える事だってあるのだ。

聖霊は 教派を超えて 流れていきたいと願っておられる。

十字架を見て 涙を流す人 [十字架]

先日 私が十字架グッズを 委託販売しているところで ショウケースのお掃除をしていたら
とつぜん そこにいたお客さんが 「いや~~気の毒ですよネエ」と 話かけてきた。
何のことかと思ったら イエス様が 十字架にかかって痛い目つらい目にあったことを 言っておられたのだった。
「そうですよネエ 私たちのために 奥様のためにも死んでくださったんですよね~」というとマスクを取って 涙を
ぬぐって 『あらわたしなんで泣いてるんかしら??」「何でも祈られたらいいですよ」「 娘が嫁いだ先がカトリックで
孫は 受けてるんです 芦屋の教会で」「えっ 私も子供の時芦屋だったんです!知っている人かもしれませんネエ」
「まあっ」「人は 本当の神様を もう 生まれる前から 本当は知ってるんですよね いつか是非洗礼を・・」というと
また わ^~~っわ~~っと 泣かれるのです。
人が 十字架を見る そこにおいてある十字架を見る イエスキリストの傷を見る 痛みを感じる・・・そこに
今まで見たことも無かった 神の愛を見る。 
実は  私はその日 その店へ委託を止めようと思って 行ったのだけれど 
サアどうしましょう???


求める [十字架]


昨日 私が365日といってもいいほど身に付けている 十字架ペンダントが 無くなった。どこで無くなったのかもわからない。
掃除機の紙パックまで 解体して探した。 愛着はもちろん 今 金が上がっているので買うとしたら以前の値段の倍はするなあとか思いながら ああどうしようと 探し続けた。
白く光るものなら ごそごそっと取り出し 銀のゴムひもだたがっかり。
自分のいい加減さにがっかり。

一日中探した。
すると
イエス様が 「私をその十字架を探すほどに 求めているか?」
ああ本当にそうだ。私は 目に見えるもの 自分に都合のいいものは 必死で求める。
でも
見えないところで 私を愛してくれている 神を それほどに求めているだろうか?
というより
もっともっと求めて 良いのだと 
言われたように思った。

イエス様 見つけ出してくださいね!!!


年齢とともに [十字架]


先日 長く会っていなかった友人たちとゆっくり食事する機会があった。上は64歳くらい下は私56歳。30歳代で出会った人たち。子育ての時をともに海外で過ごした。ホンの数年だったのに 助け合って 遊び 家族ぐるみで印象の強い人たち。 それぞれ
話の中に 病気 がん などの話が 出た。 肝臓がんで闘病中のご主人がいる人 腎臓がひとつの人 大腸がんの人 そして 10年以上前にご主人を癌で亡くした人。6人の集まりでの確率は高い!そして死の話になった。 
私は自分が 生と死のラインを跨いで生きていると思って生きているが そこにいた人のほとんどは 全く死に関して 忌み嫌い
受け入れがたいもののように思えた。
キリストの永遠のいのちナシでは 人の一生はむなしい。 
むなしさを受け入れる??そんな人生は損!
イエス様の話をしようとすると 「宗教の話はお出入り禁止!」と言って反発した友人は  私には 求めているとしか思えなかった。年齢とともに 死は近い。 
でも 死から見る人生を送れば 死はいつでも良いのだ。


会津若松の事件 [十字架]

会津若松の事件。
彼は家を替わってから様子が変になったと言う。
地図を見ると お城の近くのアパートのようだ。
昔古戦場のようなところだったのかもしれない。
会津は 幕府を相手に 市街戦になっていたはず。
取り付かれた本人は 何がなんだかわからずに 殺人を犯している。
きっと 殺されて復讐を願っている霊とか まだ闘い続けている霊とかあるのだろう。

二人羽折り状態だから その子の人格は関係ない。
家を借りたり 建てたりするときは ほんとに良く調べて・・・でも調べつくせない
のがほんとう。
その地 家に賛美と祈りが満ちて清まるようにするしかない。

彼は一生 罪を負い 闇の中を歩くのか????
主よ どうか 彼を救いたまえ
イエス様と出会うしか救われる道は無い


おおいなるもの [十字架]

私は子供のころ 家庭的につめた~いところにいたので 
たまたま友人が教会に誘ってくれたときここには愛がある 
言葉で言っているだけではなく イエス様そのものが 愛である 
自分はそれが欲しいと強く思って クリスチャンになった。 
そのとき ホカホカ温かい家庭だったら 
こんなに激しく は 求めなかっただろうと思う。しかし モシ 
教会でなかったら・・キリスト様と出会っていなかったらと思うと 
恐ろしくなる。

人は神を求めるように作られているけれど 
あいまいな諸霊とカかわることになったり
行いに縛られたり 神から遠ざけられたり・・・

昔話になるけれど
近所にとてもお金持ちの家族がいて 私の子供がまだ
2歳 0歳くらいの 育児が大変なときにある クリスチャンの集まりに
誘って下さった。それは 大きな住宅で 神戸の街の山の手にあり 
アメリカ人の宣教師たちが 開いている文化教室のようなところだった。 
ボランティアの人が子供を預かってくれて その1時間の間に
私たちお母さんは 英会話を学ぶというものだった。

アートや書道もあったと思う。終わると コーヒーとケーキ(今でも
レシピは手元にあり 懐かしい味)で 賛美歌を歌って 聖書を読み 
祈る。そういう時間だった。
私はもちろん (一応)クリスチャンだったので そういう時間はほんとうに楽しかった。
オアシス・・・部屋のグランドピアノに触ると 弾きたくて弾きたくて・・・

そこに来ている人たちは まあ お上品という人たちだし  穏やかな雰囲気。
そこでだれかが クリスチャンになったという話も全く聞かなかった。
でも 種まきの場ではあったのだろう。
育児ノイローゼになっていた 私の友人は そこまで1時間以上掛かるけれど
山の向こうからやってきて   癒やされていった。

誘ってくださってまたそこで ボランティアをされていた近所のお嬢さんは
その十数年後 お母さんが亡くなってから 実家のお父さんのお世話に通われることになり
私と頻繁に出会った。

そのとき 私はすでに生きたイエス様に出会ったいたので 
彼女は 私の中のイエス様に 引き寄せられていたと思うけれど 
彼女のどこにそんなものがあったのと思うくらいの痛みや 傷や 闇を
何もかも 私にぶちまけるという感じで 私はどうしたらいいのか とまどった。
人の力では 無理と思ったのでイエス様の話をした。

「 あなたの知っているイエス様しか 救いは無い」 と言っても 
「私は私の 神様に祈っている」と言うのだ。 
「私は毎日 ベランダに お塩とお水を供えてね。お祈りしてるの」と言う。

イイのかなあと心配したけれど 私もそのときはそれがどんなに危険かは わかっていなかった。
お父さんに対する 憎しみは強くそれとともに 自分の出生に関する
(ここにはかけないけれど)憎しみから  自分自身を憎んでいるのもわかった。
私と 聖霊なるイエス様との出会いも丁度そのころだったので 私がまだ 
霊的なことがわかっていなかったことが残念。

彼女は ベランダの祭壇で祈りながら 自分で自分を痛めていった。
私から 人間的な慰めを受けられないと知った彼女は 離れていったけれど
久しぶりに会った お父さんからは 彼女がALSになったという話を聞いた。
えっ と驚き 千葉まで祈りに行こうと思った。 
ところが なぜか 私は 千葉に行くことは無く 
彼女は苦しみながら 亡くなってしまった。 

どんなところでも 一泊どまりでも 祈りに行く私が今までこの方だけは 行くことができなかった。
本当のところはわからないけれど
ひとつは彼女の要望が 無かったこと。 それと彼女の 「私の神」の存在だった。
ある意味私は守られたのだと思う。それほどのものが彼女にあって 
私ごときが 祈りに言ってはいけない 危なかったのだと思う。
頂く年賀状の絵が(アーティストだったので) 彼女の霊のさまよいをあらわしていた。
私は祈るしかなかった。
呼ばれたら 何もかもおいて出かけていっただろう。

何かわからない 大いなるものに祈るのは危険だ。 傷ついているときは更に。
何でもやってくる カムヒヤ~と言っているのと同じだ。

では彼女に来たのは 何かしらと祈っていたら。
「それは 自分自身だよ」と主のみ声。

ああ 人は 自分自身から切れないものなのだ。 ペットが死ねば自分 
傷つけられたらその自分   
自分自分・・・・・生きているのは もはや 私ではないと口にしながら
自分を生きてしまう。
 
♪~~~どうだっていいの なんだっていいの おゆだねおゆだね~~♪

しかし おおいなるものは あいまいさの中には存在しない。
イエスキリストが 神 その狭い入り口を通って 神の姿を見ることができる。
「主なる」あなたの神 を見出すことができるものは幸い。

ガラテア4:8 神を知らなかった当時、あなたがたは、本来神ならぬ神々の奴隷になっていた。
4:9 しかし、今では神を知っているのに、否、むしろ神に知られているのに、
どうして、あの無力で貧弱な、もろもろの霊力に逆もどりして、
またもや、新たにその奴隷になろうとするのか。

ルカ10:27 彼は答えて言った、
「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。



命の果てるとき [十字架]

肉体は滅びる。 必ずその日はやってくる。いろいろな方法で 時 それもすべて神の御手の中。
友人が亡くなった。去年 会ったとき彼はお葬式に 私のフルートの演奏を希望された。 
癌で4ヶ月の告知を受けていたので 何もかも 周到に準備されていた。彼が癌と言う話を聞いたときすぐに 直接手を置いて祈った。「イエス様を信じます」と告白もされた。 そのときタラコのような形のものが 横になって浮かんでいて銀色に光っていたのが見えた。 あとで すい臓がそのような形と知り あっ癒されると信じた。
そして 病気を理由には 言いにくかったけれど 癒し礼拝に誘った。かれは幼稚園がキリスト教だったので 抵抗は無く しかしながら 宗教  と言う感じに取られたのか 祈られて帰り際に (女の宗教だなあ 僕はやっぱり 般若心経だ!」と反発された。 「ゆだねてくださいね 難しいかもしれないけれど ゆだねてください」と私は言った。そして私は神様の愛を 知ってほしいと思ったけれど これ以上はプッシュも出来ず 彼の近況をつづったブログを毎日読みながら 祈るしかなかった。 
体調はその後良くなられて 宣告された4ヶ月余命を越されていたが 癌のマーカーの数字が 上がっていた。よく癌の癒しで マーカーが上がっていても 癒されているというのがあるので 私は心配していなかったけれど  彼は癒し礼拝でもダメだったと思われたようだった。それから 「生体エネルギー」を 注入してもらうという 諸霊の世界に入って 週一回霊的な治療。 その世界に入っていかれた。そうなると 神を見ることを遮断されてしまう。 私は 諸霊の最大の問題は たとえ癒しがあっても 神から目をそらせるようにする そこが一番問題だと思うのだ。
そのころから祈ると肝臓に(この形は知っていたので・・)に3つの粒のような黒い点が見え それが年末には5つくらいに増えていき 半分以上が黒くなっているように見えました。
先月 病院でお会いすることが出来 自分の霊は どこへ行くのか? それを探しておられるのがわかりました。 死が近いことを を予感されていました。
彼は 社会的に立派に生きた満足する人生だったと また定年後も充実した人生だったと 闘病も戦った!と言う感じの闘う人だったのです。でも私は 知ってほしかった。魂の行く先の確信を 持って欲しかった。
私は イエス様のことを話し 肉体は土の器 魂は永遠 復活します。と話して 洗礼をすすめましたが はっきり拒否されました。(ああ 生体エネルギーさえなければ・・・・) 私はトマスの話しをしました。そして 祈りました。知性では捕らえられないからです。彼はランナーだったので 一人で走らなくてもいい イエス様が共に走ってくださる と 愛といのちが満ちますようにと 祈りました。肝臓がピンクに見えました。なぜかわからなかったのですが 肝臓の状態の悪い色のようです。すい臓は 悪くなっていないと話され 癒されているとわかりましたが 週末を越えられるか 越えても あと2週間かなと思いました。祈ると平安が来ました。  どんなになっても イエス様よろしくと。 しかしながら 霊的な支配を受けておられるのも感じました。 「生体エネルギー」です。 祈りが反発を受けて 自分がその諸霊を受けてしまう感じもしましたが 仕方ありません。 
「また 呼んでくださいね」といって(洗礼できれば・・・と思っていました) お別れしました。 あとは神様の領域です。
お葬式では 葬送行進曲を希望されていて それを吹きましたが 幸いその前と 準備の時間に
賛美を吹くことができました。 イエス様 彼の霊を導きたまえ。 頑張り屋の彼を
本当の神を認めたくなかった彼に あなたの傷跡を見せてください。あなたにゆだねます。


お札だってもらっていたわ [十字架]


14年位前 長男が 霊が見えたり聞こえたりで混乱していたとき 家の中の怪しいものを 大掃除した。 要するに 反応する感覚が激しいのだから 反応するものを せめて家の中から 除こうというわけだった。 ある青年に来てもらい その方のイエス ノーでいらないものを捨てた。 彼も長男と同じ感覚の人だから。他人だからはっきり見分けてくれた。 自分ではまあいいかと思っていたもの。。バリの人形 スリーピング仏陀の可愛い置物。これは4ヶ月くらい迷って(高いので) やっと買った 駐在記念の品だった。 これを生ゴミで捨てるときには ちょっと正直  うっときたのだった。お土産にもらった おもちゃの小判 これはナンデダメ?と聞くと 裏に大黒さんが彫ってあってでもたいしたこと無いと思っていたのに ポイ。何じゃこれと言われたのが 天神さんのお札。ああそうだ 高校の合格祈願に 北の天満宮まで行きました、私。 ホントに十字架の意味を知らない ホントに生きたイエス様に  出会ってないクリスチャンなんて こんなものです。 ソウソウ 天神さんの鉛筆も 捨てなくっちゃ! お稲荷さんのおもちゃもあったわ あれやこれやと 沢山ありました。 結局自分の霊が乾いているので それなりに求めて 諸霊のものを
コレクションしてしまうのですね。 お札といえば その後 まだ何か残っていると騒ぐ 息子のリクエストで 我が家の天井裏の棟上のお札を取ることになるのですが そのときの 不思議な出来事を  次に書きます。


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