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呪いとか 祟りというもの。 [賛美]


祖母は 洗礼の 5日後に 天に帰った。 葬儀で会った 祖母の顔は 透明感にあふれていて 美しかった。 
クリスチャンの人の死に顔は 何故か 美しい静けさに包まれている。
私は めったに訪れることの無い 母の実家に 気になっていることがあった。 以前 弟の腎臓の病を祈っている時に いつも
この田舎の 家のはずれにある祠(ほこら)〔大きな鳥居も付いて 柵で囲われた立派なもの)が頭に浮かぶのだった。なぜ覚えているのか小さいときに見ただけなのにと そのことを尋ねた時 母も驚いていた。 そして 私がこの祠の意味を聞いたときは びっくりで 少し怖いと思った。 それは呪いとか 祟りとかそういうものを感じたからだ。 
母方の実家は 長男が亡くなり 詐欺にあい工場を閉め 祖父は早くなくなり・・わたしの家族も 長男が亡くなり 母から 遺伝的に 腎臓が悪い。 
「何を祭っているの?」 と母に聞くと 「おじいちゃんの愛人だった 芸者さんが おじいちゃんを恨んで家の横の川に身を投げたのでそこに 水の神様を祭っている。ご神体は白蛇」  !!!!
私はその当時 私の周りの友人たちが その場所に行って祈る・・・というのに結構力があるのを知っていたのでした。
で 今すぐその祠に行って祈ろうと 思いました。 でも 牧師に聞くと「信仰に寄らないものは罪」といぅアドバイスを貰いました。 自分が何かをするというのとは違う。主にゆだね そこに賛美が満ちてくるのを祈ろうと決め 毎日祈りだしました。
すると 不思議なことに 祠の中を イエス様が 歩いているのが見えます。そして祠の中の 小さい神殿のようなお宮が 足から消えていきます。 そして何日か後に イエス様が 「ここはすでに私のもの」 と言われました。 あまりにクリアーな経過だったので 驚きました。 
昨日 お葬式の帰りに 気になっていた その祠に行きました。 そして 聖水をまいて清め 身を投げた人が イエスキリストの十字架に帰るように祈りました。しかし やはりすでにそこには 何も無いような感じがしました。祠の後ろに十字架を埋め この土地が清まるように祈りました。(これから祈る人は 十字架に祈っているんですね?!?)
やはり 以前に祈った時から 賛美が満ちてきていたのだと 本当に信じることが出来ました。
賛美が満ちるように祈る どんなに離れていても 祈りは届いています。


105歳の誕生日 [癒し]


私には 104歳の祖母がいます。 具合が悪くなって しばらく寝込んでいましたが危篤状態と父から聞き もう時間が無いと 
いう思いでいました。 長らく 洗礼を祈っていました。 祖母は 母と 折り合いが悪く私もその関係で だんだん疎遠になっていました。また 世話をしている独身の叔父が あまりだれとでも話が出来るという人ではなく 私から見ると変わっている感じがして 遠のいていました。
祖母を祈っていたのですが 何だか 死ぬに 死に切れないような 祖母が 不安に思っている感じがして
どうしたものかと思っていました。

年賀状を 片づけていると 祖母の近くに住むいとこが おばを連れて時々行っていると書いてあり
そうだ 彼に連れていってもらおうと 思いつきました。
きのうの朝 いとこの家に 電話するもつながらず じゃあもう行かなくていいのかしら?と 思いつつ 
メールだけ入れて  祈りつつ高速で実家に向かう途中・・・・・・・・・ 印を見ました。

白い鳩が6-7羽 右前から左前へ  群れになって飛んでいきました。
えっとおどろいて。イエス様私 一人でも行くのですか?確かに 白いハトだった。神様が 行きなさい と言われてる気がしました。でも頑張るのは いやだし 一人でどかどか行けないし 主にゆだねますと祈りました。
よく 集会や病院にお祈りにいくとき その場の洗礼者の数だけ 白い鳩が 飛んでくることがあります。
ということは 今日 祖母に会うとき洗礼だと いうことなのだと思いました。

お昼前に いとこから 携帯に 電話をもらいました。(ほっとしました) 彼が午後に行くというのです。時間も両親のご飯を済ませてから 丁度の時間です。 これは神様の計画と思いました。そして ボトルの水を持って こっそり祖母を洗礼をしようと ・・と決めました。おばと いとこ夫婦と私で 訪問しました。 

もう目が糊付けしたようにふさがり でも呼吸は苦しそうではありませんでした。神に感謝。 そして 声をかけ名私の名前を言いました。 どうしようかと 思っていたら いとこのお嫁ちゃんと おばが別の部屋に行きました。 私と いとこだけです。私は「わたしは ろくでもない孫で 何もしてあげていない。だから 誰も言わないでね 洗礼しようと思うの」と言いました。 いとこは笑っていました。パパっと洗礼しました・でも 洗礼の前に勝手に 癒やしの祈りをしていました。祖母は 苦労して働き リッチな生活から 倒産を経て 苦労に苦労をした人。小学生のころ 私が遊びに行って ゴムのスリッパのバリとりの内職をしていたこともあった・・・主は 何よりもそれを癒やしたいと願っておられたのでしょう。そして 洗礼の祈りが終わるころ 丁度 皆が戻ってきました。一瞬の出来事です。
いつもは人前に出てこない叔父が 入ってきました。 目に涙を浮かべ どんなに祖母のことを愛しているかわかりました。
私は変わった人と思っていましたが 心のきれい過ぎて 人とうまく交われないんだとわかりました。ああこの叔父のことが 祖母は心配なんだ それで 死ぬのが不安だとわかりました。でも ご聖霊は叔父にも触れていてくださったと信じます。

叔父の口から 今日は祖母の 105歳の誕生日と聞きました。あ~~すごい。
神様からの 最高の誕生日プレゼントだと 思いました。
本当に最高のものです。 予想もしない 神様の演出?ですね。皆で ハピーバースデーを歌いました。
すると 3日間閉じていた祖母の目が  開きました。 何かを探している! 私は はじめ おば??と思いましたが あっ イエス様を探してるんだと気づきました。何かが祖母の内側で 起こっているのでしょうね。

きっとあと数日数時間 地上で癒やされて 後 天に帰って行かれるでしょう。
肉体が苦しまないように 魂の平安を祈ろうと思います。

小さい時の 祖母の家の光景  美しかったです。 小川 湧き水 畑 堀  工場の動いている音・・・・雲雀の声!
水路の橋を 怖くて渡れなかったり・・・いつまでも 忘れられない 楽しい思い出 恵みです。




欠けたマグ [癒し]

今朝 お茶を マグで飲んでいた。 頂き物のマグなのにとても気に入って 人にあげたり 自分も良く使っていたので ひとつ二つとわれてしまい これも買いなおしたものだった。 ところが去年 カチッと口のところが欠けてしまった。 何度も買いなおしているし 何か方法無いかしらと 人に聞いて ボンドで直せばということを聞いた。それで 買ってきて そこに片栗粉〔白い粉ならと思って)を混ぜて かなり上手に ? 欠けたところが 修復できた。凄くうれしくて 生き返ったね! とマグに語った。
今朝 じっと見ていると その欠けて 直ったところを見ている自分の気持ち・・・凄く マグに愛を感じる・・・これって
神様も 欠けているマグが きっといとおしいんだろうなあ と思った。 マグは・・・地球  神様は 今地球を見て 癒やしてあげよう 何とかしてあげようと 思っているに違いない。 私は もうすぐ生まれる孫に こんな地球にしてゴメンナサイ と 言わねばならない。 でも主が この地球をどんなに愛し 行く末の鍵を握っておられると思うと ただ 信じて祈ろう と思った。。


十字架を見て 涙を流す人 [十字架]

先日 私が十字架グッズを 委託販売しているところで ショウケースのお掃除をしていたら
とつぜん そこにいたお客さんが 「いや~~気の毒ですよネエ」と 話かけてきた。
何のことかと思ったら イエス様が 十字架にかかって痛い目つらい目にあったことを 言っておられたのだった。
「そうですよネエ 私たちのために 奥様のためにも死んでくださったんですよね~」というとマスクを取って 涙を
ぬぐって 『あらわたしなんで泣いてるんかしら??」「何でも祈られたらいいですよ」「 娘が嫁いだ先がカトリックで
孫は 受けてるんです 芦屋の教会で」「えっ 私も子供の時芦屋だったんです!知っている人かもしれませんネエ」
「まあっ」「人は 本当の神様を もう 生まれる前から 本当は知ってるんですよね いつか是非洗礼を・・」というと
また わ^~~っわ~~っと 泣かれるのです。
人が 十字架を見る そこにおいてある十字架を見る イエスキリストの傷を見る 痛みを感じる・・・そこに
今まで見たことも無かった 神の愛を見る。 
実は  私はその日 その店へ委託を止めようと思って 行ったのだけれど 
サアどうしましょう???


求める [十字架]


昨日 私が365日といってもいいほど身に付けている 十字架ペンダントが 無くなった。どこで無くなったのかもわからない。
掃除機の紙パックまで 解体して探した。 愛着はもちろん 今 金が上がっているので買うとしたら以前の値段の倍はするなあとか思いながら ああどうしようと 探し続けた。
白く光るものなら ごそごそっと取り出し 銀のゴムひもだたがっかり。
自分のいい加減さにがっかり。

一日中探した。
すると
イエス様が 「私をその十字架を探すほどに 求めているか?」
ああ本当にそうだ。私は 目に見えるもの 自分に都合のいいものは 必死で求める。
でも
見えないところで 私を愛してくれている 神を それほどに求めているだろうか?
というより
もっともっと求めて 良いのだと 
言われたように思った。

イエス様 見つけ出してくださいね!!!


殺すほどの悲しみ [諸霊]

銃乱射事件の犯人の 心の中は いったいどんなだろうと思う。幻聴があり 銃を持つ。それだけでもう充分に
自分を自分の意思でコントロール することはできないだろう。
幻聴の正体は 巧妙にその人の傷に入ってくる。
医療現場に働いていたという犯人は きっと 人の生き死ににも関わったのであろう。敏感な人なら ソレはすごい痛み。
銃 武器はそれ自体に 悪霊が住むのだろうか? 持つのは撃つためだし 撃つのは殺すため。
そして 傷に巧妙に入り込む。
悪霊は必ず 人を巻き込む。 犯人が 死にたいのなら 一人で教会の庭で死ねばいい と思う。そうでなくて 巻き添えにしたのは サタンの働き その自己主張 だからだろう。 
彼の 人を殺すほどの 悲しみ怒り。 
犯人の魂の乾きを思うと 祈らずにはいられない。 殺された人はもちろんのことだ。
親友 その 無償の愛で結ばれているはずのところへ ソレを最も嫌う サタンが攻撃したのだ。
イエス様 コレにかかわるすべての人を あなたが癒やしたまえ。

本来なら愛し合い 仲良く暮らし・・という関係の人の間で 
このごろ殺人が多いのに気がつきませんか?。


年齢とともに [十字架]


先日 長く会っていなかった友人たちとゆっくり食事する機会があった。上は64歳くらい下は私56歳。30歳代で出会った人たち。子育ての時をともに海外で過ごした。ホンの数年だったのに 助け合って 遊び 家族ぐるみで印象の強い人たち。 それぞれ
話の中に 病気 がん などの話が 出た。 肝臓がんで闘病中のご主人がいる人 腎臓がひとつの人 大腸がんの人 そして 10年以上前にご主人を癌で亡くした人。6人の集まりでの確率は高い!そして死の話になった。 
私は自分が 生と死のラインを跨いで生きていると思って生きているが そこにいた人のほとんどは 全く死に関して 忌み嫌い
受け入れがたいもののように思えた。
キリストの永遠のいのちナシでは 人の一生はむなしい。 
むなしさを受け入れる??そんな人生は損!
イエス様の話をしようとすると 「宗教の話はお出入り禁止!」と言って反発した友人は  私には 求めているとしか思えなかった。年齢とともに 死は近い。 
でも 死から見る人生を送れば 死はいつでも良いのだ。


あなたを知らない人たちが 駆け寄ってくる・・・ [賛美]


今日は 二人の方に イエス様をご紹介した。 お二人は ずっと 教会にも行き また信じてもおられ でも 教会とか 洗礼とか
三位一体の意味とかに 確信が無い状態だった。それと 教会が色々と派閥に分かれている意味とかも 疑問に思っておられた。 創造主なる神を信じ イエス様を信じ でも聖霊なるお方を 認めることが出来る人は少ない。 2時間くらい食事をしながら 私なりに 聖霊の働きについて 話した。 そして祈った。 祈るとイエス様が じっと長い間 お二人を待っておられる感じがした。
紹介してくれた インドネシア人のカトリックの方。この方と私はたまたま 私の箱店でであった イエス様が連れてきた人。その人がお稽古の先で 偶然出会ったこの二人(もちろんそれまではお互いに知らない同士)何もかも主の計らいだと感じる。
主よどうか あらゆるところにいる あなたを信じているけれど 過去に関わった霊のため 動くことの出来ない人たち 教会を信じられないと思っている人たち 異邦人の人たちを集めたまえ。そして 洗礼に導きたまえ。アーメン。


認知症の母 [癒し]

実家に 週一回親の介護とまでは行かないけれど 外食したり 洋服を調えたり 銀行に行ったり役所の手続き 普通に出来なくなったことを 手伝いに行っている。 
週一回が自分としては限界。 行くのに時間がかかると言うこともあるけれど マインド的につらい。 ひとつは 自分の生活のペースが完全に崩れる。 もうひとつは 親に対して感情的なものが出て来ること。それは
今までの彼らのことや 今の状態を受け入れられない自分が重たいということ。 
親が衰えていくことには 慣れてきたけれど。
しかし同じ行くならば 行く道も 楽しく ドライブに行っている!と思うことにし 彼らの日々が すでに奇跡と思えば この今の日々は癒やしの日々であるし ちょっと遠い目でみれば 喜びの日でもある・・・と考えることにしている。
軽い認知証の母は 日付けがわからないので 冷蔵庫の中身が とんでもないものが入っていることがある。
いつもだったら  「こんなもの 捨てるね!」 と私はいうのだけれど そうするとけんかになる。 
先日 どうしようかなあ????と腐りかけの鶏肉と牛肉をつかんで考えた。母はしっかり後ろに張り付いている。 
すると口からするするっと  「ママこれ 私に頂戴!」
「あっいいわよいいわよ!」と 素直にくれた。あ~~コレは神様だわ!
認知症相手に まともに向かっていったらダメ。 
これからはこの手でいこう!と 気がついたことでした。


一番うれしい贈り物 [祈り]


来年の 2月に長男のところに べイビーが生まれる。寒いときに臨月なので ママさんコートがいるだろうと思って  先日 近所の赤ちゃん○○ というお店に 買いに出かけた。 最近まで このようなお店は 他人事で眼にも入らなかったけれど これからはお世話になる??のかなあと 思いつつ 探検気分でした。 ピッタリのコートがあり うれしくなった。そうしていると 店内にアナウンスがあり アレがあります コレがありますというアナウンスの最後に 「一番うれしい贈り物」と 言う言葉があった。
なんだかそれを聞いて  こんなにうれしい買い物は 無いなあ という思いと  べイビー自体が 神様からの一番うれしい贈り物だなあって 思うと。涙が出てきた。 そして 先ほど 次男にもべイビーが!
まあ ホントニ こんな幸せは無い!! 私に孫が与えられるなんて。主に感謝。
写真はいのちの木 のデザインのチャームです。


混じりもの [諸霊]


先日 クリスチャンショップを二つ 訪れた。 永らく行ってみたいお店だったので とても楽しみにして 行った。
一つ目のお店では 木製の祭壇を 販売されていた。 (製作しているのは お仏壇屋さん) 十字架に名前を入れて お位牌のようにしている。 bなかなか美しい。 そして たくさんの御メダイが売られていて カードもあった。 もちろんたくさんの十字架も。
そして その近所のもうひとつのお店にも 行った。 
ごちゃごちゃしていて おみやげ物やかなと思うほどの 御像の山 写真のクリスマス飾りもあった。
本当にすごい数の 聖人カード  御言葉カード メダイ クロス ・・・・・はっきり言って
美しくないものも・・・・・
ナニか空気がよどんでいるような 気もした。
その夜 寝ている間私は 何度も叫びながら うなされた。なんともいえない変な気分だった
別室にいた夫が何度も起きて 様子を観に来たらしい。

朝になって いったいなぜ?? 体の背中のほうが凄く痛み その痛みで目がさめていた。
そして 自分がとても変な気分で 叫んでいるのだ。夫に指摘されるまでも無く
私自身もわかっていた。

いやはやいったいどこでお持ちかえリしたのだろう?

早速血潮の賛美をかけて 祈る。

なんとなくわかってきた。
混じり物はいらない。と言われたのだ。 クリスチャンショップ 聖職者がやっているといっても
要らない物を入れてはいけない。 それと 人形はやはり諸霊が入りやすいのだろう。
あの変な(雑で いかにも中国製)ずらずらっと重なり合って並んでいた 聖人や 十字架やマリア様。。。。

違う! アレには信仰が無い!
アメリカのどこかの クリスチャンショップで 「うちは 金儲けだけで作っている 中国製は 置いていませんし置きません」と
表示している店を ネットで見た。 そのときは マアどっちが傲慢??と思ったけれど
本当に 聖品は物であっても 物であってはいけない。 信仰が そこに表されていないと もう別のものになる。
この世の価値や 値段は変わらなくても
あっという間に偶像になる。
偶像とは 信仰の無いもの。なのだろう。


美しいもの [キルト]


先日私が教えているパッチワークキルトの教室の生徒さんが ある本を見せてくれた。それは  無心のときを求めて という本で
彼女の96歳の 刺繍の先生の作品集だった。 美しく、いのちにあふれていると言うのはこういうのをいうのだろう!
ひとつひとつの 花や草を じぶんでスケッチして 刺繍されている。いや普通ではない! 聞くと同志社の 英語の先生オルガン弾きで・・・・クリスチャン。あ~~そうか いのちの流れを知っていて じぶんからあふれているんだとわかった。
お会いしたいわ~~と 久しぶりの大感動だった。その方の名前は 江上幸子さん。


思い出と癒やし [癒し]

きょうは実家に行った。 父と母と三人で 外食をするのを 最近は楽しみにしてくれている。夕食を作って持って行くので
母は その日は何もしないで過ごせる。 ところが車に乗ってすぐ 父の舌から 血が出てきた。以前かんだところから血が出て
来たので大した事はないよと言うけれども ワーファリンと言う血が止まりにくくなる薬を飲んでいるので どんどん出てくる。それで 家に戻ることになった。せっかく着替えて お出かけしたのにかわいそうだなあと思っていると 足湯が家の近所にあり そこによろうかと言うと 母は あ~それなら その隣に○ ○ という老人施設があるから そこにママの絵が飾ってあるとみんな言うのよ と言いだした。それは何のこと??と聞くと 自分は覚えてないけれども どうも差し上げたようなんだと言うので 早速 寄って見に行こう!! ということになった。 田舎のきれいな老人ホーム!  ゆったりしていていい感じ。そこで 中に入って見せてもらった。 確かにあるある。 あげたことは忘れていたけれど 自分が書いた絵だということはわかり その当時を思い出して
涙ぐんでいた。 なかなかきれいな絵で 掛けてもらっても恥ずかしくないようなできばえ。 母が 絵をあげたことを忘れているのが ご愛嬌ではあるけれど。。。。凄くうれしそう。 母の癒やしのシーンでした。 たまに実家に行くと そこに賛美が満ちているかどうかで 両親の具合が違う。 顔も違う。 イエス様今日も癒やしをありがとうございます。舌の突然の出血もイエス様。 お食事に行け無かったのも イエス様。 母の癒やしも イエス様。


喜びを持って刈り取る [癒し]


先日 十年前くらいに 出会って 洗礼を受けそのままカトリック教会に行くようになった人と 偶然とあるパーキングで会った。
先月 教会に来ておられ(私たちの教会は メンバーシップが無いので 出入り自由) たまたま私の横で 「あなたと話がしたい」 といって電話番号を聞かれていたけれど そのままになっていた。 十年前 私たちは彼女が友人と同じマンションにいて たまたま カメオのことに詳しい彼女に聞きに行った事から 出会いが始まった。 初めファッション関係の仕事をしている彼女のオフィスに行ったとき 仏教の大きな絵が壁に掛かかっていて あれまと思ったけれど 彼女自身は 話をしていると さまようほどに
本当のものを探している魂・・・と言う思いが来る人だった。その渇きは凄く いろいろとお坊さんの話をされたけれど それにも本当は満足されていないのがわかった。その後 すぐに洗礼を受けられた。 いろいろあったようで・・(私はそういう風になってもかまわないというかイエス様から離れなければ どこでもいいと思っている) カトリックに行かれているという話を聞いていた。
時分時だったので 二人で お昼を食べに行った。
すると彼女は 自分の夢の話を突然私にした。
寝ているのか?うつうつとしていたのか?わからないけれど 自分に声が聞こえてきた。 
「〇〇〇子。 お前は死んだのだ」といわれ
自分の周りの景色が 遠くにあるように思え 体がなくなったような感じで コレが死んだということなんだと
思ったそうです。
私は ああ 肉に死んだんだと 抜けたんだと思いました。「よかったわね」と
心から喜びました。
彼女はカトリックで 聖書の知識を学び ずっと祈っていたそうです。 自分に信仰の従順さと 素直さをくださいって。
この十年。 そして教会の伝道者の著作のヨハネ聖研の本を ボロボロになるまで 読んだそうです。
本当に求める魂 始めてあったときと変わりません。
私は「良かったわね 自由になったんやねえ」と言うと 「そうそう そうなの」と。。。。
あとは言葉にならず 私は感動していた。
初めてイエス様の話をしてから10年。イエス様は 導き 解放されたのだ。
以前は ばっちり ファッション界の人のメイクをしていた彼女も
すッピンで (かわいい) 私とお昼食べているのだ。
涙が出て止まらなかった うれしくて。
「私 もう死ぬって 怖くないと思うのよ」とまでいう 彼女の
なんともいえない魂の清らかさに イエス様ありがとう!!!
べたべたの友人でもない私たちだけれど あの初めてオフィスで会ったときの
窓から見えた 虹を思い出して この出会いを感謝しあった。
涙を持って種まくものは 喜びとともに刈り取る
その出会いだった。




BOSE [賛美]


昨日 実家の父の要望で BOSEのCDプレーヤーを買って 父の部屋に設置した。
実家には 古いCDプレーヤーがある。 以前乖離盛大動脈瘤で倒れた 1995年に 私が買ったもので あの時は病室で これを使って 私は賛美CDを流し続けていた。父は手術も出来ず 2%の確率でしか助からないというところを 復活した。
しかしながら その後も 娘の吹くフルートを聴いてやろう位にしか賛美に興味が無かったと思われた 父が 今年になって透析をするようになって 週に三回、5時間の暇つぶしのために CDウオークマンを聞く事になった。 さんびのCDを聞き始めた。そして9ヶ月・・・ 部屋のCDプレーヤーの音が変だから モットいいのを買ってきて欲しいと 父に言われたのだ。
私は驚いた! そうか 賛美の響きを感じ始めているんだと うれしくなり 早速垂水のアウトレットに行って BOSEのCDPLAYERを買った。 持って行くとすごくうれしそうにして・・・・・・
教会の賛美コンサートのCD.  安い機械では再生しきれない音とよく言われるけれど 確かに私のフルートの音や 女性の高音の響きも 今までのとは全く違って 充分に余裕で鳴る。 さすがBOSEである。
以前夫に 同じものを買ったので 音のいいのは知っていたけれど まさか 自分の実家で この響きが再生されるとは。
父はこの賛美の響きで 癒やされるのを知ったんだなあと思うと 凄くうれしい。
両親ともに 賛美の中で 穏やかに静かな暮らしをしていてくれることが 本当に 何よりと思う。 
ある意味 もう天国にいる !!! 


ほんとうのところ [癒し]


昨日 脳出血の後遺症で 自宅で療養が始まった友人宅に お邪魔した。 車で家のそばまで来ると あ~~しまった早く来過ぎたと後悔。それは彼女と リハビリ中のご主人が 道を歩いている・・・あら~~〇〇! と声をかけるも反応ナシ。 追いかけて窓から振り返ると 全く別のカップルだった。でも あまりにそっくり。 同じように右足に装具をつけて 杖をついておられ また付き添っている人もメガネをかけて 友人とそっくりだった。 迎えてくれた彼女に 今そっくりのひとが 同じ装具を右足に着けて 歩いていたよ。ほらあの人 というと彼女は追いかけていった。私はモシ近くの人だったら いろいろ聞くことが出来ると思い この出会いを感謝したけれど 顔を見ると全く知らない人で 彼女は戻ってきた。
私はこれは 神様が 〇〇! このようになるよ!癒やされるよと見せてくださったのだと 信じている。 本当に後姿 そっくりだった。


どんど晴れ [癒し]


今 朝の連ドラ 「どんど晴れ」に はまっている、 主人公のナツミという若い女性が 盛岡の旅館で女将修行というのが最初の設定で そんな頑張りドラマは 要らないと初めは思っていたのだけれど ストーリーが展開していくうちに いろいろな問題を
彼女は 笑顔と信頼で 解決して乗り切っていくというところに すごく感動した。 現実にあるはずのないストーリーだけれど
聖霊様のあるところには 可能な話。 NHKでこんな話 (作者はクリスチャン?)すごいと思って 時々涙ぐみながら見ている。 加賀美屋 同様 同族の会社を 夫の実家はやっていて 結局分裂し 家族の絆も何も 本当に悲しい思いをした。 私の家族も 父と母が不仲で 冷たい家族だった。 現実の社会の家族って 何も問題の無いところはないだろう。そして 情の世界での 人のとりなしや 我慢 犠牲 は なかなか本当の解決にならない。
ナツミは 人を信じることで 和解をもたらすことを、 喜びを持ち 分け与えることで 人がひとつになることを体現している。
これは神の願い。
今日は 悪人秋山に ナツミが「あなたはそんな悪い人ではありません」と 迫るところがありました。そのとき秋山は ナツミの顔を見ることが出来ませんでした。 それを見て 私も 一度 あまりの愛の光で 見ることの出来なかった目を思い出しました。
それは 14年まえ 講演会で会った マーリンキャロザース師の目でした。
(久しぶりに 彼の名前を 思い出し 検索してみると 動画もありました。2005年まだ日本にこられてお元気のようです。)
2mくらい離れたところに 座っていた M師 が 私に 優しく微笑みかけてくださったのですが 私は すべてを見透かされている感じとあふれる 暖かいもので まともに見つめることが出来ず 下を向いてしまいました。
http://web.astone.co.jp/tlccc_hp/merlincarothers/merlin.htm
そして 講演が始まり 真正面に座った長男が あまりの聖霊に ずるずるっと椅子からずり落ちて動けなくなった。 M師は あらどうしたのと 駆け寄ってくださったけれど 私の教会の癒やしの伝道者の人が HOLLY SPIRIT ですといって説明してくれた。まあ こんなに敏感な少年も ソウソウいないということだろう。
最後に一人ずつ祈ってくださり 会も終わろうとしたとき 見知らぬ女の人が 癒やしの伝道者Mさんのそばに来て 何か 話していた。
すると 突然 Mさんが祈りだし 私は え~~よその教会で祈っていいのお??? と あわてたけれど そのオンナの人は倒されて その時 12年(確か)の長血がいやされたと聞いた。彼女は 何もわからず M師の講演会に来て 突然そばに居た知らない男の人が あなたは あの人に(Mさん) 世界一の癒やしの伝道者だから 祈ってもらいなさいと強く勧められて 寄ってこられたのでした。
JOY 喜び 先に喜んでしまう これがサタンの入り口をふさぐ最善の蓋。なつかしいM師の声を聞きながら 「肉体のとげ」も
主に祈り、賛美に向かうようにとの 計画としか思えなくなる。


すべてお見通しの神 [賛美]


日曜日 軽井沢の教会で 長男が結婚式を挙げた。 夫の足の潰瘍は 良くなりそうで完治にまだまだの状態。披露宴で何とか無事に父としての挨拶も済ませることが出来たけれど 薬の副作用があるのか 元気がいまひとつ。
病院との相性も悪い。でも 私は賛美の中にいること これで絶対癒やされる。もし今 癒やしが無くても それは神様がナニか伝えたくて そうなっている。と確信していた。だから夫にはモットモット賛美の中に 入っていて欲しいと願っていた。  
何とか帰りの新幹線にたどり着き 席にすわるとすぐ 夫の隣の人が 新しいDVDのパッケージを開けてばたばたと あわてて
今見なくてどうするみたいな 勢いで見始めた。チラッと見ると 箱にユダヤというカタカナが見えて なあんだ 経営コンサルタントか お金儲けの話だと思いました。黒板の前でおじさんが立って話している画面を見てから 私はもうぐ~~ぐ~~寝てしまいました。あとで夫に聞くと なんとそれは 黙示録「4つの生き物」の講演だったそうです。 今年のリトリートの CD のタイトル ではありませんか。 私は寝ましたが DVDの本人も寝てしまい 夫は 東京に着くまで隣の画面をずっと見ていたそうです。神様の迫り そして すべてお見通し 守っているよというメッセージですね。

黙示録4:6 御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座のそば近くそのまわりには、四つの生き物がいたが、その前にも後にも、一面に目がついていた。第一の生き物はししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人のような顔をしており、第四の生き物は飛ぶわしのようであった。 この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼のまわりも内側も目で満ちていた。そして、昼も夜も、絶え間なくこう叫びつづけていた、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者」

私もその日 4つの生き物のCDを聞きながら 「隙間の無い天幕」という言葉が来ました。 幕は細胞膜のようにも思えるのです。
夫の足の潰瘍にも 膜が張りますように。 隙間の無い賛美の中に置かれますよう祈ります。


カウンセリング [癒し]


最近思うのだけれど オトコっていう生き物は この世で生きるには 女より 肉体的には強いけれど
心は より繊細で 弱いものと思うようになった。 これは どのおオトコも大して変わらなくて どんなにマッチョで 会社を経営しているとか 頭脳明晰であっても 家に帰ると女に ぐじゅぐじゅっと 弱みをさらけ出すか(嫁がそれに応じないと 外で代わりの女を作る) または お酒で発散するか 趣味に没頭するか??
パターンはそんなに無いようで。 とにかく外で強い分 反応も強いということではないかと思う。
長い間そうしていると 肝臓が。。とか 離婚とかになってしまう。
お酒も女も趣味も ある意味のカウンセラーといえる。
 
この世には 職業的カウンセラーという人がいる。 私の周りでも何人かいるけれど どの人も素敵な人たち。女性が多いのは 天性 オトコの受け皿の能力を授かっているからか??
私はカウンセリングを受けたことがある。それは子供が精神科にかかっているときだけれど はっきり「カウンセリング」という時間を貰って受けたときは カウンセラーが 漢字が書けない程度の 若い人で 私に対する質問から 期待している答えも想像できる それくらいのことは こっちも想定済み というような浅いものだった。 でも カウンセリングという時間ではなかったけれど 別の精神科の診察室で Dr まだ若い女性・・が 子供をハグして (丁度診察を 中止することに決めたときだったけれど) やさしく 「つらいときはいつでも来なさいね 」と言ってくださったときは そうだ この子に対しては 受け入れる 何があっても受け入れるそれが 瞬間的に与えられた答えだった。こういうのは 神様のやり方なのだと思う。そして何より 祈りによる聖霊の癒やし。
これはもう 瞬間的に 過去も未来も現在もを知っておられる 主の癒やしだから 完璧。オマケに一方的に与えられるのだ。
そして 癒やされていく順番 そして 中身も神の基準で行われる。 なぜ 今癒やされないの? どうしてこうなるの?ということがあっても 本当はそれが最善なのだ。そのときわからないのだけれど 後になって あ~神様の最善と知るのだ。

延々とカウンセリングを受けて 人の言葉のやり取りで傷つくこともある。 人は完璧ではないからだ。そして受け手は 複雑な傷を持っているから カウンセラーの意外な言葉で傷つく。それと カウンセリングの基準がこの世の基準なのだ。 人の基準で善しでも 神の基準ではダメということがある。 神の癒やしは 知性からはぶっ飛んでいる。それは 愛が基本だからだ。沢山の神の癒しを見てきたけれど 知性ではとても クリアーできないすばらしい結末のときもあるが また 意外な展開を見ることもある。しかし そこには bすぐにはわからなくても イエスの愛が 存在しているのを見る。それはその人にとっての最善なのだ。
では カウンセリングを神が使われないかというと それも違う。 カウンセリングの奥にイエス様の愛があるかどうかだけなのだ。私の基準では 最善のカウンセリングは・・・・・賛美することです。 神の愛が 自分の魂の奥に満ちて 神様のやり方で(最善)がなされていく。知性で誘導したり あいまいな霊で催眠をかけたりするのとは違う。 はっきりと 主の愛があらわれる。
かさぶたを まだ乾ききっていないかさぶたを 引き剥がすような 知性の、 人の基準でするカウンセリングは間違ってると私は思う。それほど 賛美を通しての 神のみわざは 凄いものだと知っているから。

お酒も飲まずに 女にも寄りかからず 趣味にもはまらず ただ喜んで賛美する  これは オトコにも オンナにもゆるされている
神の世界。。。。 神様が望まれている世界だと思うのです。


結婚式 [癒し]


来週 長男が結婚式を挙げる。先日アルバムの中から いいのを選んでスキャンして送った。披露宴のためである。
いろいろなシーンの中に 子供の笑顔があり この笑顔のために いろいろあっても乗り越えられる そのために祈ってきたんだなあと思う。 そして 周りの人に 支えられてきたことにも感謝。
1枚1枚眺めながら これからも幸多かれと 願う。
しかし 15年前 聖霊なる神に 再び出会っていなかったら 
おそらくこの日は無く 又 生きていたかもわからない・・・・・
闇の中にいる おそらく闇にいることも 気づかない人たちのために 祈ろうと思う。

お嫁ちゃんのリクエストで 作ったのが このピロークッション。2時間くらいで出来た。


写教。。。聖書を写経。 [祈り]


先日 母の具合が悪くなったので 祈っていたら 礼拝で 牧師が 聖書を書き写している間に 脳が癒やされた人がいると
話していたので  そういうことでもしたら 聖書を読めない母でも 何とかみ言葉に触れられると 祈るような気持ちで シスターのサイトや 本のサイトを見ていた。すると 写経のような 写教という 聖書を大きく印刷して 書き写すための本が出版されていることを知った。 それで あわてて 実家に行く前の日に 三宮のシスターのお店に 買いに行った。行くと ここに現物はありませんといわれ  電話番号を下さった。すぐにメールで注文して 詩篇とイザヤ書が手元に届いた。 
美しく 何故かページを開くと 風が吹いてくるようだった。 クリスチャンの未亡人が 夫の遺産を使って 出版されたようである。
礼拝に持って行き 牧師に見せると 「え! これ誰が作ったんだい!??」と感動され 伝道者の人に見せると 「字が大きくて
言葉が強く迫って来る。賛美がどんどん出てくるわ!」とこれまた驚きの言葉が。
それで あと どの聖書が欲しいか聞いて 送りますね! と 私たちは喜びでいっぱい。それで 私は新たな注文をファクスでした。そこに 牧師たちの感動したことを書き 私もその方のお幸せを思うとうらやましいと書いてだしました。すると お返事とともに
一冊の写教聖書が届きました。 それは出版元からの私への プレゼントでした。 続く


お盆 [諸霊]

お盆に入った。 霊に敏感な人は 反応してしんどい日々が続く。 母のところに先日行ってみると ナニか変。 私が着くなり 飲み物はいらないと言っているのに 甘い飲み物 おやつはいらないというのに 次々と台所から持ってきて並べる。用事をしにきたのだけれど その用事が 済んでいたことに気が付いて がっくり来て私は寝てしまった。家の中はどんよりしている。母の声も変。あ~~賛美が~~無い!。
気が付いたけれど こちらもきついのだ。じっとして時間がたぅたらすぐ帰ろう!。 
早朝から 作ったおかずを冷蔵庫に入れようとしたら すでにナニかお弁当がしっかり3個入っている。
これはなあにと聞くと 「朝から買い物に行って来た、あんた 泊まっていき これは晩御飯」
ナンだ私が作ったのは無駄か!と少しへんな気持ちになる。
そうして帰ろうとしたら 朝から買ってきたという 大きな箱 ぶどうだと言うのだ。え~~っ昨日大きな箱で届いている。
一人では食べられないくらいある。それでも抱えて帰ることに。で玄関で 自分が買ってあったコメ袋を[暑いので車に乗せられない)担いで帰ろうとすると 「あっこれjこれ 持ってかえって」と 5キロのおコメを 出してくるのだ。さすがに今新しいおコメを2キロ(一人だから1ヶ月はある) 手に持っているので いらない というと ムキになる。もう面倒になったので 自分の荷物コメ袋2つ
ぶどうの箱を抱えてガレージに行こうとした。外は灼熱なので 出ないで出ないでと言っているのに  「どんなに言ってもママはいくんだ」と付いてくる。おかしい? しかしこちらはあとまだ1時間以上 この暑い中を運転しないといけない。
これ以上疲れたくないので そそくさと帰った。 父も出てきたが変な顔。
しかしそのときは 気が付いていなかった。
翌日になって なぜ コメと ぶどうなんだろう。朝からなんでわざわざ 私が行くときはナニか食事を持って行くはずなのに 買い物に行くのか?と気がついた。
あこれ 戻ってきているんだわ! 諸霊が。
だから先が読め 私の買い物の中身や 贈られた品物がわかるんだわ!と。おかずを作ってもっていっている私を一番がっかりさせるのは おかずだもの。顔も変。何より違うのは声。

電話して 母に賛美CDかけるように言った。すると 最近頭が痛いという。(お盆?)そして賛美CDをかけると気持ち悪くなる(そりゃそうでしょう)と言う。 我慢してね少し我慢して聞いてね 前みたいになりたくないでしょう??と説得し
怒っている父をなだめ これしかない 人にはぼけは癒やせないだからCDかけて 賛美していてねと頼む。
話しているうちに これは父もおかしいのかなあと 疑ってくる。だってうつるもん。

すきあれば 汚れた霊はもどって来て 前より整っている住処に住み着く。
信仰に立ってくれたらよいけれど 聖書すらまだ読めない。 そうだ 父もだ。
いったいこの鉄のような心 ハート。この二つを開くことが出来る日が来るのかと思う。
しかし とりなしの祈りがある!!
だいじょうぶ!
主にかけよう!


子猫ちゃん その後 [祈り]

先ほど
中学生の女の子が4人 うちに来ました。
「あの~~子猫ちゃんのことで・・・」
「えっなあに。。。。」
「あの時 たすけてくれてありがとうございましたあ!」

1年生の まだ幼い感じがする子達です。

お手紙を下さったのです。
皆 あのときに子猫を助けられなくて 後悔したそうです。
自分が よけてやればよかったとか
何も出来なかった自分に。。。責めてたんですね やっぱり。
でも
泣きながら お祈り聞きながら
子猫が天国に行ってダイジョウブって はっきり思ったんですって
みんな 思ったそうです。

一粒の麦のような 子猫のいのちですね!
子猫の祈りで 神 天国を知る この4人の子達は 幸せです。
一生忘れないかも。

「ずっと寂しい野良猫だったけど みんなに送ってもらって
きっと喜んでるから ダイジョウブよ」と話して 
スワロフスキーのクロスチャームをあげて
わ~~って
ほんとうに かわいい!
心配していたけれど 一件落着です。

きっと クロスを見て お祈りするね。


子猫ちゃん [祈り]

先ほど 通学路になっている我が家の前で
かわいい子猫ちゃんが 車に轢かれて死にました。

子供たちの悲鳴 とブレーキの音で まだ寝ていた私は 
がばっと起きて 窓からのぞくと  猫でした。
あ~~死んだかもと思いながら 服を着替えてあわてて外に出ました。

子供たちが囲んでいる中で
小さな猫ちゃんが いました。
触るとまだ暖かいですが  死んでいました。それで 
天国に帰るように お祈りをして
子供たちを見たら 中学生の女の子が わあわあ泣いていました。
純 ですね。
小学生は 驚いて 騒いでいるの。
「みんな 神様イルの知ってるでしょ?そこに帰ったからダイジョウブよ」と
言ってダンボールの箱に入れました。

野良のようですが 
みんなに見送られた ラストディでした。
あとで気が付いたのですが 事故を見ていた子がいたと思うので
その子に  もう一言 かけてやったらよかったと思いました。
きっと自分を責めているんじゃ ないかしら??

朝から・・・・・ 自分も中高生のときは よく泣いたなあと
思い出したのでした。
クリスチャンになったのは 高一でした。 それからは泣いていても
違う感じ・・・慰めがあるのを知っているんですね。
小さな子供たちに 猫ちゃんに 神様の愛が流れていきますように
と 祈ります。


キリスト賛美集会と 癒やし [癒し]


昨年の11月くらいから いつも我が家でしている賛美集会をオヤスミした。 
それは奈良の実家に何時行かないといけないか わからないこと
親が病院に何時入院になるか??という介護の問題が迫ってきて
見通しが着くまで お休みしようと思ったからだった。

丁度そのころから 夫の 足の痛みがひどくなってきた。5-6年前から 下肢の皮膚に
紫斑がでて 血行不良で歩けないくらい痛み そのころは夜 
痛みで起きてしまう程だった。泣いているのだ 夜布団の中で。

私はいっても彼の信仰なので ほかから見たら冷たいかもしれないけれど
癒やしはなると信じていた、 むしろ壊疽で 足ちょん切っても どうなっても御手の中。
怖れに 絶対はまらないと決めた。
しかし どの医者に行っても 原因がわからない。
それで 対症療法で 圧力靴下を履いていたのだけれど 
彼が 足のツボに ピップエレキバンを貼ったら  そこに 潰瘍ができてしまった。
それから 半年以上 その潰瘍が治らない。 
どういうわけか 私に触らせないので いつの間にか大きく 深くなっていたことも
私は 知らなかった。

コンサートのまえ 傷と痛みがひどくなった夫は  高圧酸素療法を
受けるために 医科歯科大で診察を受けた。しかし 又ここでも 原因がわからなかった。
潰瘍はどの病院でも 少し良くなり 又さらに悪くなるということの繰り返しだった。
黙示録コンサートが終わったら 夫の病は治ると 私は信じていた。でも
ヨブ とよぶべきかと思うくらい どんどん状態は悪くなり 私は ハタと 
昔霊の見える人が 我が家に来たときのことを思い出した。 ここは 石切り場だから
いっぱい霊がいる。前の谷を工事なんかしたら 大変なことになる 200人は
死んでいるわよ。といわれたことがあった。 確かに慰霊碑が建っている。 その周りの谷の木を切り倒して
新しい家が建っている。 でも 私はそのことを気にもしなかった。
それは この地に賛美が満ちていたら どうって事はないと信じていたから。
ところが 今その賛美が絶えているのだ。
お祈りのリクエストにそれを書いて 礼拝のあとで 直接夫を祈ってもらった。
長い長い時間祈られ・・・・・ 普通ではない祈りだった。
しかし癒やされなかった。
でも それは見た目で 本当は癒しが始まっていたのだった。

コンサートが終わり私は早速自宅での 賛美集会を さっそく再開した 
先週の土曜日夜。
私は 5時ごろ あと2時間くらいだし 楽譜のコピーに掛かった。すると 夫が
やってきて なんだか睡眠薬を 間違って飲んだのかなあ と言いだした。
えっと思った私は じゃあ寝たら?と言った。そして一人で 賛美した。
久しぶり。大方半年。
乾いていたんだなあ 私はここで コンサートの練習はしていたけれど 
純粋に捧げるということは半年振りだ。

なんと夫は 時間になっても 起きてこない。ピアノをがんがん弾いているのに。
私は癒しがきているのかもしれないと
思って放っておいた。すると 賛美が終わり 1時間位してから 夫が起きてきて
ああ朝まで寝たかと思った。 時間がわからん こんなに深く寝たのは久しぶりと言った。
「なんだ癒やしジャン」 と私は思った。主よありがとうございます。

すると 足の色が いつもより白い。そして 傷口がふさがぅてきているという。
オーハレルヤですよね  完璧。医者に見離されていたのに。
初めて 上向きの状態になりました。今日も調子良いようです。

主よ もっと いやしをください。まだまだ お仕事があります。あなたの願いのためのお仕事が。
賛美の集会を与えてくださってありがとうございます。 一人で祈っても
賛美しても 只中に主が折られることを知ります。その家の 
真ん中に主がおられることの ありがたさ。すべてが変わって行き 整えられました。


会津若松の事件 [十字架]

会津若松の事件。
彼は家を替わってから様子が変になったと言う。
地図を見ると お城の近くのアパートのようだ。
昔古戦場のようなところだったのかもしれない。
会津は 幕府を相手に 市街戦になっていたはず。
取り付かれた本人は 何がなんだかわからずに 殺人を犯している。
きっと 殺されて復讐を願っている霊とか まだ闘い続けている霊とかあるのだろう。

二人羽折り状態だから その子の人格は関係ない。
家を借りたり 建てたりするときは ほんとに良く調べて・・・でも調べつくせない
のがほんとう。
その地 家に賛美と祈りが満ちて清まるようにするしかない。

彼は一生 罪を負い 闇の中を歩くのか????
主よ どうか 彼を救いたまえ
イエス様と出会うしか救われる道は無い


思いもかけないことが [癒し]

わんこを預けて 旅行に行き その間にわんこ マリは天国に帰ってしまった。 
なぜなぜと イエス様に聞いたら これでよし という思いしか来ない。色々理由はあるのだろうけれど 私は マリが
最後のときに さっとイエス様に抱かれたと 信じている。恐れも無く 悲しみも無く。

そして 今 なぜ私が旅行に行ったか ? というより 何かに押し出されるようにして 旅行に行った
そのわけがひとつ 明らかになった。
夫は この6年くらい 足の血管炎で 紫斑が 手と下肢に出ていて 痛みがひどく 去年の暮れから 
ひどい潰瘍になっていた。私はそれが 壊疽になると怖れていたけれど なかなか口には出来ず
ナニか手を打つべく 思いをめぐらしていたけれど 原因がわからないので 困っていた。

それが NZ行きの飛行機のなかで コーラを頼んだところ その泡が激しく立つのを見て 機内は与圧されているけれど
1気圧より かなり低いと 気が付いた。 私は何故か感で 夫は飛行機に長く乗る 痛みがとひどくなるので
原因は飛行機 と思っていた。でもいわゆるエコノミー症候群と思っていた。 これはと思い 下りるときに乗務員に聞くと
「富士山より少し低いくらいです」と言われた。 え~~っ。ある種の高山病かと思った。

家に帰って ネットで検索していくと  減圧症 ダイビングと言う項目で 夫の症状と同じ
手足に マーブル(大理石)状の 皮下出血とあった。 それで 私なりの仮説・・・・・飛行機内での減圧症が原因と考え
夫に 飛行機に乗るのをやめるように頼んだ。 それから一ヶ月 なんと !!!
良くなってきたのだ!!!
サンキュージーザス!!!
あのコーラの 泡を見るために 行ったのでしょうね。
もちろん風もですが。
神の計画は 私たちの知らないところで 始まっている。


おおいなるもの [十字架]

私は子供のころ 家庭的につめた~いところにいたので 
たまたま友人が教会に誘ってくれたときここには愛がある 
言葉で言っているだけではなく イエス様そのものが 愛である 
自分はそれが欲しいと強く思って クリスチャンになった。 
そのとき ホカホカ温かい家庭だったら 
こんなに激しく は 求めなかっただろうと思う。しかし モシ 
教会でなかったら・・キリスト様と出会っていなかったらと思うと 
恐ろしくなる。

人は神を求めるように作られているけれど 
あいまいな諸霊とカかわることになったり
行いに縛られたり 神から遠ざけられたり・・・

昔話になるけれど
近所にとてもお金持ちの家族がいて 私の子供がまだ
2歳 0歳くらいの 育児が大変なときにある クリスチャンの集まりに
誘って下さった。それは 大きな住宅で 神戸の街の山の手にあり 
アメリカ人の宣教師たちが 開いている文化教室のようなところだった。 
ボランティアの人が子供を預かってくれて その1時間の間に
私たちお母さんは 英会話を学ぶというものだった。

アートや書道もあったと思う。終わると コーヒーとケーキ(今でも
レシピは手元にあり 懐かしい味)で 賛美歌を歌って 聖書を読み 
祈る。そういう時間だった。
私はもちろん (一応)クリスチャンだったので そういう時間はほんとうに楽しかった。
オアシス・・・部屋のグランドピアノに触ると 弾きたくて弾きたくて・・・

そこに来ている人たちは まあ お上品という人たちだし  穏やかな雰囲気。
そこでだれかが クリスチャンになったという話も全く聞かなかった。
でも 種まきの場ではあったのだろう。
育児ノイローゼになっていた 私の友人は そこまで1時間以上掛かるけれど
山の向こうからやってきて   癒やされていった。

誘ってくださってまたそこで ボランティアをされていた近所のお嬢さんは
その十数年後 お母さんが亡くなってから 実家のお父さんのお世話に通われることになり
私と頻繁に出会った。

そのとき 私はすでに生きたイエス様に出会ったいたので 
彼女は 私の中のイエス様に 引き寄せられていたと思うけれど 
彼女のどこにそんなものがあったのと思うくらいの痛みや 傷や 闇を
何もかも 私にぶちまけるという感じで 私はどうしたらいいのか とまどった。
人の力では 無理と思ったのでイエス様の話をした。

「 あなたの知っているイエス様しか 救いは無い」 と言っても 
「私は私の 神様に祈っている」と言うのだ。 
「私は毎日 ベランダに お塩とお水を供えてね。お祈りしてるの」と言う。

イイのかなあと心配したけれど 私もそのときはそれがどんなに危険かは わかっていなかった。
お父さんに対する 憎しみは強くそれとともに 自分の出生に関する
(ここにはかけないけれど)憎しみから  自分自身を憎んでいるのもわかった。
私と 聖霊なるイエス様との出会いも丁度そのころだったので 私がまだ 
霊的なことがわかっていなかったことが残念。

彼女は ベランダの祭壇で祈りながら 自分で自分を痛めていった。
私から 人間的な慰めを受けられないと知った彼女は 離れていったけれど
久しぶりに会った お父さんからは 彼女がALSになったという話を聞いた。
えっ と驚き 千葉まで祈りに行こうと思った。 
ところが なぜか 私は 千葉に行くことは無く 
彼女は苦しみながら 亡くなってしまった。 

どんなところでも 一泊どまりでも 祈りに行く私が今までこの方だけは 行くことができなかった。
本当のところはわからないけれど
ひとつは彼女の要望が 無かったこと。 それと彼女の 「私の神」の存在だった。
ある意味私は守られたのだと思う。それほどのものが彼女にあって 
私ごときが 祈りに言ってはいけない 危なかったのだと思う。
頂く年賀状の絵が(アーティストだったので) 彼女の霊のさまよいをあらわしていた。
私は祈るしかなかった。
呼ばれたら 何もかもおいて出かけていっただろう。

何かわからない 大いなるものに祈るのは危険だ。 傷ついているときは更に。
何でもやってくる カムヒヤ~と言っているのと同じだ。

では彼女に来たのは 何かしらと祈っていたら。
「それは 自分自身だよ」と主のみ声。

ああ 人は 自分自身から切れないものなのだ。 ペットが死ねば自分 
傷つけられたらその自分   
自分自分・・・・・生きているのは もはや 私ではないと口にしながら
自分を生きてしまう。
 
♪~~~どうだっていいの なんだっていいの おゆだねおゆだね~~♪

しかし おおいなるものは あいまいさの中には存在しない。
イエスキリストが 神 その狭い入り口を通って 神の姿を見ることができる。
「主なる」あなたの神 を見出すことができるものは幸い。

ガラテア4:8 神を知らなかった当時、あなたがたは、本来神ならぬ神々の奴隷になっていた。
4:9 しかし、今では神を知っているのに、否、むしろ神に知られているのに、
どうして、あの無力で貧弱な、もろもろの霊力に逆もどりして、
またもや、新たにその奴隷になろうとするのか。

ルカ10:27 彼は答えて言った、
「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。



ペットの死 [わんこ]

わんこが 天国に帰って 三週間になろうとする。 初めの一週間はとてもつらく 死に目に会えなかったこともあり
自分で自分を責めそうにもなった。 それでどうしてこんなに悲しいのですかと イエス様に聞いた。

すると  「それは 自分だからだね」と キッチンでテーブルを拭いていたときに 不意に言われた。
あっそうだ。自分を重ねている。

そう思うと マリに 失礼だと思った。 どんな状況であれ マリはマリの犬生を尊厳を持って生まれ 生きて帰っていった
と思うと 涙がぴたっと止まった。

それに祈りは聞かれ マリは あっという間に苦しまずに 死んだのだから。
わんこでさえ 主からのもの。
そう思うと ただうれしくて よかった~~と思えるようになりました。

ふわふわのもしゃもしゃ


 [わんこ]


ニュージーランドで 360度 手付かずの自然の風景の中にいると 風が違う。
今まで ナイキのマークのように思っていた風の流れが 
風はエンドレスに 吹いているんだとわかった。 これはとてもとても 私にとって大きなことだった。
どこから吹いているのかもわからず どこに吹くのかもわからない。
とどまることなく 流れていく。
ほんとうに 聖書に書いてあるとおりだ。

賛美の曲も 今までとイメージが変わってしまった。
これだけでも マリを置いて NZに行った甲斐があった。

コンサート練習で チラッとその話を 伝道者の人に言うと
彼女は 「そうよ! 天はそうなっているのよ。みんなとシェアしていい??」
と言った。
しかし これは あそこに立たないとわからないだろう。

風は止まらない。
流れて すべてを巻き込み 癒やし 慰め 流れていく。


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